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われらアグリ応援団 第56回 「発祥の地」 歴史に思いはせる

たま吉くん
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われらアグリ応援団 第56回 「発祥の地」 歴史に思いはせる

富山ゆかりの実業家は多い。有名なのは、かつての安田財閥の始祖、安田善次郎(1838~1921、富山市出身)だろう。東大安田講堂や、オノヨーコの曽祖父としても広く知られている。セメント王で京浜工業地帯をひらいた浅野総一郎(1848~1930、氷見市出身)をはじめ、たくさんの経済人がいる。名前を挙げはじめるときりがない。

だが、この人物だけは紹介しておかなければならない。安田善次郎より半世紀以上も前に富山の地で生まれた清水喜助(1783~1859)である。

先日、「清水建設北陸支店の社員たちが、ボランティアで獣害対策に取り組んでいる」と聞いて、神通川の左岸にある富山市小羽地区の山腹に向かった。

とても暑い日だったが、棚田が広がる農業集落で、社員40人がイノシシを防ぐ電気柵の取り付け作業に汗を流していた。山里では年々、高齢化が進んで人手が足りなくなる一方、棚田を荒らすイノシシの被害は増えている。獣害対策は重労働だが、米づくりに直結する。社員たちはこの日、地元の農家や住民、ボランティアの学生たち、県の職員と力を合わせ、総延長6・5キロにわたって柵を張り巡らせた。創業者の清水喜助ゆかりの地とあって、誇らしげに活動している姿が印象に残った。

て、取材の仕上げをしなければならない。

棚田の現場を離れ、清水喜助の足跡を訪ねることにした。

生家跡は、廃校となった旧小羽小学校のそばにあり、今は農地になっている。その近くの山道を上ると、きれいに整備された「清水記念公園」にたどり着く。

公園の案内板に、喜助の生い立ちが記されていた。

喜助は幼少のころから彫刻などの技にすぐれ、10代で村人の家を建てるほどの大工の腕前だった。好きな大工の道で名を成そうと故郷を離れ、日光東照宮の修理に携わり、その後、1804年に神田鍛冶町で大工の仕事を開業した。清水建設はこの年を創業年としている。その後、諸大名の信頼を得て頭角を現し、開港間もない横浜に進出するなど社業の発展に尽くしたという。そして喜助の死から70年後の昭和初期に、若き日の5代当主が神通川沿いにある「小羽」という地名だけを頼りに、初代生誕の地を探り当てた。

案内板はおおむね、そのような歴史を紹介している。

静まり返った公園で、鳥のさえずりを聞く。

地域を守りたい農家や住民、発祥の地を大切に思う社員たちだけでなく、清水喜助を生んだこの土地は、今にいたるまで多くの人の思いをつないできた。そう思うと、なにか大きな物語の一瞬に居合わせているような気がして不思議だった。

 

日本農業新聞富山通信部ライター 本田光信

 

▲電気柵のくいを打つ清水建設の社員ら

 

▲きれいに整備された清水記念公園

 

▲清水喜助生誕の地の標柱

 

▲電気柵設置の説明を受けるボランティア